私はムスリムです

私は日本人改宗ムスリムです。イスラームについて学んだことをシェアしているブログです。

イスラームは寛容です。

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2018年9月7日)

―― イスラームは寛容である ――

 

あらゆる賞賛は、アッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

 

信者たちよ。イマーム・マリックという人物は、土地の支配者より国の人々の導きとなる手引きを作るように命じられた。色々と工夫を凝らし、イマーム・マリックは、アル・ムワッタというハディース集をまとめ上げた。イマーム・マリックがまとめ上げたアル・ムワッタを、クルアーンに次ぐ資料として参照するようにと、支配者は、国の人々に広く伝えたという。このことについて、イマーム・マリックは、「信仰篤い人々よ。異なる指導者による種々の考えというものが、アッラーの御恵みとして集団に対してもたらされている。それらは、それぞれに真実としてあるものである。そのすべてが、正しい導きであり、アッラーの御悦びを願ってのもである。」と述べている。有難いことに、それら教えについて、異なる見解というものがあるのは、各指導者の教えについての謙遜さの現われということである。ところで、集団全体が、イスラームの為に一枚岩に結合していることを想像したとして、そこには何があるというのか。教えについて様々な見方があるということは、人々にとって自然なことである。預言者さまSAWの時代以来、人々が互いに意見が異なるというのは、審判の日まで変わらず続くことだろう。イスラームの教えに中に人々が留まるとうことであり、異なる考えや寛容さがそこにはあるということである。アッラーは、クルアーン・フード章において述べておられる。

「また、お前の主の御心ならば、その御方は、人々を一つのウンマになされたであろう。だが、彼らは、反目しあっている。」「お前たちの主が慈悲を垂れられる者は、別である。その御方は、そうなるように、彼らを創られた。・・・」(11章 118--119節)

要するに、イスラームの教えに中に人々が留まるということは、反目し合うことなく、イスラームを受け入れながら、異なる考えや寛容さの許に存在するということである。

 

信者たちよ。異なる考えや異なる見解を持つことは、前向きなこととして受け入れられるべきであり、断絶し争い合う原因となってはならないのである。それは、人間としての生来の気質であり、人間生活の活気の反映である。種族や宗教の異なる人々で仲良く影響できるのに対して、異なる見解や異なる教育の故に互いに反目し続けるものがあるなら、誠に残念なことである。実行に係わる見解の相違があるというのは、アッラーから集団への恩恵の現われである。それぞれ、各々の裁定は、地域、時代、慣習、集団の影響といったものに従って、それぞれに定まってゆくものである。特定の場所、時代、人々に適合する裁定は、異なる慣習に合わせて訓練され、適合されるのである。こうして、我々の慣習や規範が同じではないということで、他者の見解を咎めたり嘲ったりすぐにしてしまうことをしないということが大切である。我々は、他者の考えに対して、互いに敬意を払うということである。預言者さまSAWの教友や、学者たちは、種々の教えについて互いに異なっている。例えば、教友に一人が預言者さまSAWが唱えられたのと異なるクルアーンの読誦を行ったことがある。それを聞いていた教友は、読誦した教友を伴い、預言者さまSAWの許を尋ねた。訪問の主旨を理解し、預言者さまSAWは、「それぞれで良いではないか。」と応えられたという。即ち、許容される範囲内のことであるというのである。イスラームの基準を外れてはいないということを示して頂いたということである。また、イマームに従った礼拝について、従属者の立ち位置や、声の出し方についての違いもあるという。私たち信者は、教えの小さな違いを乗り越えて、アッラーの許に愛し合う兄弟となってゆくのである。

 

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブーバクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

 

アッラーよ、何時でもあなたさまを顧みて感謝し、満足を知る者であるように御導き下さい。

アッラーよ、クルアーン預言者さまSAWのスンナに従う者であるように御導き下さい。

アッラーよ、正しい道を歩む忍耐強い者であるように御加護下さい。

アッラーよ。日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン