私はムスリムです

私は日本人改宗ムスリムです。イスラームについて学んだことをシェアしているブログです。

洞窟章が教えること

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2017年7月7日)

―― 洞窟章が教えること ――

 

 

あらゆる賞賛は、賞賛を受けるに相応しい御方であられるアッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

 

信者たちよ、マッカ啓示のクルアーンの洞窟章は、洞窟に潜んだ若者たちに因んで、その章の名前が付けられた。アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「洞窟の仲間たちとその碑文のことを、お前は、考えないのか。わが印の中でも驚嘆すべきものであったと。」(18章 9節)

洞窟章の素晴らしさについて、預言者ムハムマドSAWは、「金曜日に、洞窟章を唱える者には誰にでも、続く金曜日までの間、光が差し続けるだろう。」と述べられた。また、アッラーの御使いSAWは、「洞窟章の最初からの十節を暗記した者は誘惑(の手)から護られる。」と言われた。 なお、「洞窟章の最後の節」と言われたとも、「洞窟章の最初の節」と言われたとも伝わっている。いずれにせよ、洞窟章の大切さは、そこに語られている出来事を通して道徳的な教訓に満ちているということにある。そこには、日々の生活や現実についての教えがある。

 

信者たちよ、洞窟章は、最も高潔であられるアッラーを讃えることで始まっている。賞賛は、アッラーにとって最も似つかわしい事柄である。日々何かを行うに当たっては、それを始める前に必ず全能のアッラーを思い、賞賛することがいかに大切であるか、それを人々に教える内容のものである。あらゆる賞賛に相応しいアッラーが、良いことと幸福の創始者であられることを、何事につけても思い浮かべることが求められているということである。アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

アッラーを讃える。アッラーは、しもべに啓典を下された。それには、少しの(矛盾点などの)不備はないのである。」(18章 1節)

全能のアッラーは、洞窟章の幾つかの節を通して、正しい導きを願う若者たちのことを我々に教えて下される。その青年らの敬虔さの見返りに、最も恩恵豊かなアッラーは、何年間もの間彼らを洞窟の中で眠らせることで、外敵から護られた。至高のアッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「さて、彼らが洞窟に滞留したのは、3百年に加えて9年であった。」(18章 25節)

その期間の間滞りなく、至高のアッラーは、その青年たちをいかなる迫害からも保護なされ、長い眠りの後、その眠りから覚めさせたのである。眠りから覚めた若者たちは、どれ程の間眠っていたのか互いに尋ね合った。その中の一人が言ったことを、アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「・・・私たちが(眠りに落ちていたのは)、一日か、一日にも満たない程度です。・・・」(18章 19節)

このことは、至高のアッラーが、生きるというこの上ない恵みを授けられることに対し、誰もがアッラーを讃えるべきであるという教訓なのである。我々は、目覚める毎にアッラーを敬服することは、この上ない幸せなことである。預言者ムハムマドSAWは、「我々に生命を与えられ、それを取り上げ復活させられるアッラーにこそ、全ての賞賛があります。」と言われた。誠に、睡眠は、短い死であるということである。

 

洞窟章が強調する教訓のもう一つが、財産に恵まれた者の物語である。その者の財力は、彼を傲慢にし、至高のアッラーへの信仰をむしろ弱いものとした。友人は彼に、束の間の現世と現世の眩さに惑わされないようにと忠告しはしたが、彼は、その忠告には全く注意を払わなかった。それに耳を貸さないだけでなく、終末の日にについて疑問まで差し挟み、アッラーは、来世には現世よりももっと沢山の良いものを下されると楽観し、友人と距離を置こうとしたのである。それに関して、アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「また、(審判の)時が来るとも思いません。また、仮に、私の主に戻されても、きっと、これよりももっと良いところを見い出すでしょう。」(18章 36節)

 

信者たちよ、洞窟章は、良い師に師事し、熱心に知識を求め、良い振る舞を学ぼうとするアッラーの御使いムーサ(平安を)についても語っている。アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「ムーサーは彼に、『あなたに師事させて下さい。あなたが授かられた正しい知識を、私にお教え下さい。』と言った。」(18章 66節)

この物語は、注意深さの重要さと、あわてて行動すべきではないということを教えている。我々は物事を予言する立場にはないのであるから、未来に対し急いだり予言したりすることのないように教えているのである。物事の全貌を知った後では、悪と見えていた事柄が善であったり、期待すべきものと思っていた事柄がそうではなかったということである。このことについて、アッラーは、クルアーン・婦人章において述べておられる。

「・・・お前たちは、何かを嫌うかも知れないが、アッラーは、そこに良いものをもたらされるであろう。」(4章 19節)

さて、アッラーの御使いムーサ(平安を)に対して、信仰篤い師匠が、未来のことを明らかにして語るのである。それについてアッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「・・・私が勝手に行ったことではなかったのだ。・・・」(18章 82節)

良い事柄というものは、至高のアッラーが我々の為に選ばれ、我々に授けられるということである。即ち、この信仰篤いムーサ(平安を)の師匠といえども、自分の考えで行動しているのではなく、アッラーが決められた事柄に追随しているに過ぎないということである。即ち、アッラーが御用意なされる運命だけを信じ、何事も受け入れなさいということである。

 

信者たちよ、洞窟章の後半においては、人々の良い行いと、良いことへの努力に対する報酬として、アッラーは、天国での高い位階と、永遠に続くこの上ない喜びとを約束なされ、そのことを我々に思い起させるものである。アッラーの道の為に心から行動することで、アッラーからの最良の報酬である天国を授けられるということである。また、洞窟章は、良い友を持つことの大切さを説いている。友とは、良くも悪くも我々に影響を及ぼす存在なのであるが、アッラーは、クルアーン・洞窟章において述べておられる。

「朝に夕に、主の慈悲に満ちた御顔を求めて祈る者と共に、自分を正しく守りなさい。また、現世の生活の栄華を望んで、彼ら(友)から自分の目をそらせてはならない。また、われが、その心にわれを念じることをないがしろにさせた者、また、私欲に従って、自分の事に、法を越えた者に、つき従ってはならない。」(18章 28節)

良い人々との交流は、宗教上、ないし世俗の生活の上で、良くあろうとする為の最高の助けとなる。誠に、良い友は、人々に勇気と平安を与え、敬虔さを高める為の助けとなるのである。

 

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

 

アッラーよ、洞窟章を通しての教えを十分理解し、行いに反映できるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。

アッラーよ、預言者ムハムマドSAW に従い、イスラームの教えを守る者にして下さい。

アッラーよ、私たちの信仰心を強くして下さい。私たちの過ちを御赦し下さい。

アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。

アッラーよ、イスラームムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。

アッラーよ、病気の者たちを御治し下さい。仕事の無い者たちに清い仕事を御与え下さい。

アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン