私はムスリムです

私は日本人改宗ムスリムです。イスラームについて学んだことをシェアしているブログです。

イスラム法の死刑に値する3つの罪

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において
                     40のハディース 第68回
           الأربعين النووية  2017年10月10日スカイプ講義より

 


イマーム アンナワウィー編   

 『40のハディース』解説 
第14のハディース
第14の伝承

イブン・マスウード―アッラーよ彼を嘉したまえ―の権威による。彼は伝えている。

アッラーの御使い―アッラーよ彼に祝福と平安を与えたまえ―はこう言われた。

 

つぎの3つに該当しないかぎり、ムスリムの血を流すことは許されない。

結婚した男が姦通した場合。一人の生命にたいする一人の生命。宗教を棄て〔ムスリムの〕共同体を離れた場合。

この伝承は、アルブハーリーとムスリムの2人が伝えている。

参考:アラビア語の原文「الوافي في شرح الأربعين النووية」مصطفى البغاpdfファイルhttp://bit.ly/2lQnARP
日本語原文:イスラミックセンター・ジャパン「40のハディースhttp://muslimjapan.com/hadith_japanese 
シェイフ ラマダーヌ ルブーティー師(アッラーのご慈悲あれ)の講義 49(最初~39:40)参照
ハディース解説:
《つぎの3つに該当しないかぎり、ムスリムの血を流すことは許されない。》


ここで言う「ムスリム」というのは、ムスリム男女のこと、つまり、ムスリムムスリマのことです。

 

アラビア語では、男性を指す単語を用いていても、男女両方を含んでいます。

 

クルアーンの中によく出てくる【信仰する者よ】と言う表現も、わざわざ、「信仰する男と女よ」とは書かれていませんが、男女両方を指します。

つまり、ムスリムの男であっても女であっても、血を流すことは許されない、という意味です。

イスラーム法において、刑が確定した場合には、ムスリムを殺すことが許される、つまり、裁判所で、裁判官によって「死刑」が確定する場合、というのは、3つあります。

 

刑の確定は、イスラーム法に精通した裁判官が決定することであり、一般人が決めることではなく、もちろん刑を執行するのも一般人ではありません。

1.《結婚した男が姦通した場合》


すべての既婚者の姦通が、死刑になるわけではありません。以下のような、いくつかの細かい条件があり、それらがすべて満たされた場合においてのみ、イスラーム法によって裁く裁判官が、刑を確定します。

既婚者の姦通が死刑となる条件:


1. イスラーム法において、ニカー(結婚契約)をし、実際に夫婦の関係を持った既婚者であること。:
イスラーム法におけるニカーをせず、その国の市役所で婚姻届けを出しただけのような結婚しかしていない者は対象外となります。また、ただニカーをしただけで、夫婦生活を行っていない者も、対象外です。

これは、男女ともです。

独身者の場合は、刑の対象から外れます。

2. 自分の意志により故意に行った姦通であること。:


姦通を行うことに同意し、その行為を行うことに満足して行った場合。故意に行ったものでなければ、婚外交渉の罪を犯す意図がなかったとみなされ、対象外となります。


故意の姦通ではないとみなされるいくつかの例:
・ニカーが成立し夫婦になったと思っていたが、ある不備によりニカーが成立していなかった場合。


・妻だと思って夫婦関係を持った後で、それが別人であったことが判明した場合。


・強制された場合、等。

3. 二人が確実に関係を持ったという、4人からの証言がある場合、もしくは、両人が、自らの意志で故意に姦通を行ったと認め、その他のイスラーム法における諸条件を満たす形で自白した場合。


この4人の証言というのは、ただ部屋に二人きりで入っていたのを見た、もしくは、二人きりで床に入っていたのを見た、というだけでは不十分です。また、証人は3人でも不十分です。実際に、二人が関係を持った状態を、4人が目撃し、それを証言した場合のみ成立します。

上記の条件がすべてそろった場合のみ、裁判所で裁判官により、刑が確定し、石打による死刑が執行されます。この場合、刑の執行は、石によるものでなくてはならず、他の手段を使うことはできません。しかし、裁判所で、上記の3つの条件がひとつでも欠けていることが判明した場合には、裁判官により、死刑は確定されません。いくつかの条件が欠けている状態だが、確実にハラームを行った、ということが判明した場合でも、裁判官は、二人の更生にとってもっとも効果的な罰(死刑以外)を与えることになります。

質問:婚外交渉をした者に対して死刑というのは、厳しすぎる、重すぎるのではないでしょうか。

回答:イスラーム法は、人間が考えた物ではなく、アッラーがお決めになった法律です。そのため、アッラーのことを信じていない人にとっては、誰が決めたかわからない法を理解することが難しいのは当然です。しかし、もし、アッラーのことを信じている人の中から、こういった意見が出てくることがあれば、次のように言えます。この死刑は、ただ、姦通の罪を犯した既婚者を裁くためにある刑ではない、ということです。そのことは、条件のひとつである、4人の証人が必要、という点を見れば、明らかです。

姦通を行うところを、実際に、4人の人が目撃する、というのは、どういう状態でしょうか。それは、社会の秩序を壊し、その社会の尊厳に対し挑戦状をつきつけるためにしか行われません。そうでなければ、公共の面前で、死刑に処されるような大罪を犯すことを誰がするでしょうか。これは、社会に対する明らかな宣戦布告です。ウンマイスラーム共同体)の尊厳を傷つけ、社会生活において風紀を乱し、治安の悪化を促進するために、故意になされる、ウンマに対する背徳行為です。この背徳行為により、婚外交渉が伝染病のように社会全体に広がると、その社会の秩序は乱れ、社会の構成単位である家庭の秩序がまず崩壊します。この伝染病は、急速に社会に広がり、その勢いを止めることはできません。まるで火が枯れ木の山を焼き尽くすように、その悪は瞬く間に社会全体に広がって行きます。

また、この死刑確定の抑制力となる、2つの刑があります。それは、4人の証人を集められず、3人以下の証人しか証言しなかった場合、名誉棄損という罪となり、むち打ち80回という重い罰が発生することです。3人がいくら証言しても、4人目がいなければ、この3人には罰が確定します。この罰があることにより、イスラームでは、婚外交渉を目撃した人は、それが1人、2人、3人であっても、その罪を隠すことを余儀なくされます。アッラーは、目撃者達が、彼らの罪を隠さないことに対して、罰を設けました。

また、この罰が、重すぎると思う人は、つまり、婚外交渉を罪でなく、自然のこと、と捉え、必ず、その罪を軽視しています。もし婚外交渉という罪が重罪だと思っていたら、この罰を重すぎるとは思わないでしょう。罪が重い、と理解していれば、罰も同様に重くあるべきだと理解できるからです。しかし、欧米のように、婚外交渉がその社会に蔓延し、特別なことでなくなっってしまうと、こういった見方をする人が出てきます。

罰というのは、罪の大きさ、その罪の危険性の大きさによって決められるべきです。婚外交渉というのは、どんな悪影響を社会に及ぼすでしょうか。そのひとつに、父親のいない子どもや孤児の増加、母子家庭の増加、また、人工中絶により命を奪われる子どもの増加があります。つまり既婚者の姦通は、不幸な子どもを大量に発生させるのです。婚外交渉が許されている社会の中で、どれだけ多くの子ども達が、闇の中に葬られているでしょう。大人の身勝手な行動が、何の罪もない子ども達の生きる権利を侵害しています。公共の面前で、この罪を犯し、社会にその病をまき散らすことが、大罪に値しなければ、何が大罪に値するのでしょう。この罪に対する罰が重すぎる、死刑は野蛮だ、と言う人は、この罪による子ども達にもたらされる残忍な結果を軽視しています。この刑があることで、罪の大きさを認識し、罪を犯すことを抑制し、社会の秩序と風紀を守ること、それがイスラーム法の刑罰の目的です。

アッラーが私たちのウンマをお守くださいますように。

親による子供の良い教育

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2017年9月8日)

―― 親による子供への良い教育 ――

 

あらゆる賞賛は、賞賛を受けるに相応しい御方であられるアッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

 

信者たちよ、イスラームは、しっかりとした基盤に立脚しており、公正さ、品行の良さ、奉仕的であることを旨としている。それ故、全ての人の幸福を確かなものとする。例えば、両親には自分たちの責任を果たすように教えており、家族、子供の世話を良くしなさいと教えている。子供の養育や子供に必要な衣食と安全などを満たすことを意味するものである。アッラーは、クルアーン・雌牛章において述べておられる。

「母親は、乳呑児に満2年間授乳する。これは、授乳を全うしようと望む者の期間である。父親は、家族の食料や衣服の経費を公正に負担しなければならないが、誰も、その能力以上の負担を強いられない。母親は、その子のために不当に強いられることなく、父親もその子のために不当に強いられてはならない。・・・」(2章 233節)

同じ視点で、預言者さまSAWは、子供を育てる責任は両親にあると強調なされ、次のように述べておられる。「あなたがたが保護者であれば、それに伴う責任がある。男は自分の家族を守る者であり、自分にその責任がある。女は、家庭を護る者であり、自分にその責任がある。」  この責任の一端である子供に対する優しさについては、預言者さまSAWに良い例を見ることが出来る。アナス・ビン・マリク師(平安を)は、「アッラーの御使いSAW以上に家族に優しくする人を見たことがない。」と述べている。そして、預言者さまSAWは、子供たちを公平に扱うのを常とされ、「アッラーを畏れなさい。それで、どんな場合でも、自分の子供たちに公平に接しなさい。」と言っておられる。預言者さまSAWは、例えば、自分の男の子にはキスするのに、女の子にはしない者のことを間違っていると言われる。ある時、預言者さまSAWの側に座っていた男のところにその息子がやって来た。すると、男は息子を膝に乗せてキスをしたのに、その後に来た娘を脇に座らせただけだった。それを、預言者さまSAWがご覧になられ、「どうして二人を同じにして上げないのですか。」とおっしゃられた。

 

信者たちよ。また、アッラーの御使いSAWは、孤児に対する後見は大事なことであり、後見人になることにより大きな報酬があるだろうと力説なされた。そのことに関してのハディースがある。預言者さまSAWは、「孤児を後見した者と私とは、楽園においてこのようである。」とご自分の中指と人差し指とを立てられた。

 

信者たちよ。父親と母親にとって、子供をきちんと世話することは大事な責任である。預言者さまSAWが示された教育方針に従って手を尽くし優しく子供の世話を果たすことが大切である。預言者さまSAWは、「何事にも優しさが伴っているなら優美であり、優しさが伴っていないならば台無しである。」と述べておられる。即ち、子供には、間違ったやり方で接してはいけないということであり、次のハディースが伝わっているのである。「一人のベドウィンが預言者さまSAWの許にやって来て、『あなたは子供たちにキスをする。だが、我々はそんなことはしない。』と言った。すると、預言者さまSAWは、『アッラーがあなたの心から優しさを取り上げてしまった後では、心に優しさを得ることは出来ない。』とおっしゃられた。」 即ち、親として子供の遠い将来を見据えて、子供には優しく接し注意深く見守り教育するということである。預言者さまSAWは、まだ幼かったアブドッラー・ビン・アッバスに、「少年よ、良いことを教えてあげよう。アッラーの教えに注意を向けなさい。アッラーは、あなたを御加護なされる。アッラーの正しい道を守りなさい。アッラーは、いつでもあなたと共にあられる。願い事をしたいなら、アッラーだけに願いなさい。助けを必要とするなら、アッラーだけに助けを求めなさい。」と教えて下さったものである。

 

信者たちよ。更に、子供の両親というものは、子供たちの行いや、何が不足はないかを見てやって欲しいし、良い友を選ぶことが出来るように、交友関係に注意を払ってあげて欲しい。預言者さまSAWは、「人は、友の宗教に惹かれるものである。それ故、どういう人物を友とするか誰もが配慮するべきである。」と述べておられる。また、我々は、子供たちが接しているメディアの内容について知る必要がある。マスコミや、スマートフォンなどの道具を用いてのインターネットを通じてのウエッブサイトからの情報などである。今日それらは、急速に進化する技術を駆使したもので提供される。子供に対する注意を怠らず、どんな形態にせよ子供に対する暴力、悪い会話、虐待と言ったものに接する機会を避けることは重要である。誠、アッラーの御使いSAWは、決して悪い言葉を使い、悪い話をなさることはなかった。預言者さまSAWは、「あなたがたの中の最良に人は良い品性で良い性格の人である。」と常々言っておられた。

 

信者たちよ。子供に対する最良の教育者とは、他人を当てにせず、自分自身で良いことを行う者である。そうした良い教育の為には、最善を尽くし、礼儀正しく、イスラームの伝統に従い、きずなを強める必要がある。そして、人助けの大切さ、年上への敬意、他人への親切、寛容、集団に対する心からの忠誠、指導力と言ったものの大切さを教えるのである。誠に、それらは、集団のきずなを強くする、祖父、父親の代から引き継がれてきた偉大なイスラームの価値ある特質なのである。預言者さまSAWは、「決してないことである。アッラーに誓って、アッラーがあなたに慈悲をかけないなどということは決してないことである。あなたは、家族や友人と良い関係を保持しなさい。貧しい人を助け、来客に親切にしなさい。災難を被った人を救済しなさい。」と述べておられる。アッラーは、慈悲の故に人々に教えを説かれ、御導きになられる。それ故、何かに従おうとするならば、アッラーに従いなさい。

 

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

 

アッラーよ、子供たちをしっかりと育て、教育できる者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。

アッラーよ、預言者ムハムマドSAW に従い、イスラームの教えを守る者にして下さい。

アッラーよ、私たちの信仰心を強くして下さい。私たちの過ちを御赦し下さい。

アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。

アッラーよ、イスラームムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。

アッラーよ、病気の者たちを御治し下さい。仕事の無い者たちに清い仕事を御与え下さい。

アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン

 

アッラーを思うこと

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2017年9月1日)

―― アッラーを思うこと ――

 

あらゆる賞賛は、賞賛を受けるに相応しい御方であられるアッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

 

信者たちよ、アッラーを畏れなさい。アッラーの教えと御命令が一番大事なものである。それ故、アッラーが禁じられることから身を遠ざけなさい。アッラーは、クルアーン・雌牛章において述べておられる。

「お前たちは、聖なる儀式(巡礼)を果たしたならばアッラーを念じなさい。自分たちの先祖を念じる様に。いや、それよりも深く心を込めて念じなさい。人々の中には、『主よ、現世で私たちに幸せを賜りますように。』と言う者たちがあるが、彼らは、来世における分け前を得られないであろう。」「また、人々の中には、『現世で私たちに幸せを下さって、更に、来世でも幸せを下さいますように。業火の懲罰から、私たちを守って下さい。』と言う者がある。」「これらの者たちには、その行ったことに対して分け前があるだろう。誠、アッラーは、精算に素早くあられる。」(2章 200—202節)

いずれの民族も誇りとする何かを持ち合わせている。その誇りとするものとは、自分たちの狭い考えや奇跡などと称する出来事に由来するものに過ぎない。そこには、確かな神意とか、正しい教えといったものは存在せず、地上や天上からの啓示といったものに従うものでも無い。一方で、アッラーは、イスラームの信者たちの為に恩恵を全うし、イスラームを宗教として完全なものとし、信者の守護者であられ、そして、イスラームをあらゆる宗教を越えた保障のあるものとして位置づけられた。アッラーは、クルアーン・雌牛章において述べておられる。

「われを念じなさい。そうすれば、われもお前方について考慮するであろう。われに感謝し、恩を忘れてはならない。」(2章 152節)

 

起きて、寝て、座り、立ち、朝出掛け、夕方戻るあらゆる時に、アッラーに思いを寄せるムスリムたちは、心臓が鼓動し、目が動き、手足が動くといった事について、それらの全てがアッラーの御望みと支配によるものであると知り、感動を覚える。夜が来て、昼間を迎え、夜明けの瞬間や薄明かりがあり、そして、創造物の動きや星々の軌道に従った動きといった現象があるが、アッラーに思いを寄せるムスリムたちは、そうした現象の中に、イスラームが内に秘めている奥深さを感じ取る。なぜなら、そうした全てが、アッラーの御力と御配慮によるものであると分かっているからである。アッラーは、クルアーン・イムラーン家章において述べておられる。

「立ち、または座り、または、横たわってアッラーを唱念し、天と地の創造について考える者は言う。『主よ、あなたさまは、いたずらにこれを御創りになられたのではないのです。あなたさまの栄光を讃えます。火の懲罰から私たちを御救い下さい。』」(3章 191節)

 

アッラーを愛し、アッラーに愛され、アッラーの故に愛をおぼえる者を除けば、誰も人生における本当の喜びも、本当の幸福も感じ取れないのである。アッラーを愛し、アッラーに愛され、アッラーの故に愛をおぼえる者は、アッラーを思うが故に心穏やかである。彼らは創造物に起こる良いことに幸せを感じ、そして、他の人の痛みを感じ取り、人々が人間としての最終の希望を叶えられるようにと、援助の手を差し延べる。そして彼らは、アッラーを思い、「アッラーよ、あなたさまが与えて下されないなら、私にも、あなたさまが創造された他の何ものにも恵は存在しません。あなたさまは唯一であり、協同者は居られず、あなたさまは、称賛と感謝に値する唯一の御方であられます。」と述べる。彼ら敬虔な者たちは、一時のものに過ぎない現世で起こる物事の中に潜んでいるまやかしや、楽しいものに見えてしまう俗事から自分を遠ざける。彼ら敬虔な者たちは、アッラーの御悦びが得られる道を進み、アッラーにお会いできることを強く望み、あらゆる時と状況にあってアッラーの御名を忘れず思い続ける。アッラーは、クルアーン・家畜章において、預言者ムハムマドSAWが語る言葉を述べておられる。

「言ってやるがいい。『私の礼拝と奉仕、私の生と死は、万有の主アッラーの為であります。』」「『アッラーには同位者はありません。この様に命じられた私は、ムスリムの先駆けであります。』」(6章 162--163節)

 

信者たちよ、主が天使を前にして、人々を誇らしく思われるということがあるという。「教友たちがマスジドで座り円陣を作っていた。そこに御使いさまSAWが来られた。『座って何をしているのか。』とお尋ねになった。それに対し、『私たちはアッラーに祈願し、アッラーを讃えるために座っているのです。なぜならアッラーは、私たちをイスラームの道に導き、私たちに加護を与えて下さったからです。』と答えました。この時、御使さまSAWは、『アッラーにかけて、なんとあなたたちはそれだけのために座っているのですか。』と言われたので、彼らが、『アッラーに誓って!私たちが座っているのはその目的のためだけです。』と答えると、『私は、あなたたちに異議があって、誓いを求めているわけではありません。ただ、天使ジブリールが私の処に来て、アッラーは、天使たちにあなたたちの素晴らしさについて語っておられると、私に知らせて下さったからです。』と言われた。」 至高のアッラーを思うこと、アッラーへの懇願、アッラーへの良い行い、信仰行為が、アッラーにとっての誇りなのである。良い信者たちは、アッラーを思い、純真無垢な心を持ち、アッラー服従し、その一方で、短気にならず、卑屈でもなく高慢でもなく、謙遜であって、そして労働の場では誇りを持って足を泥にまみれにし、手は骨折りに耐え、労苦に立ち向かう。そうした、敬虔なムスリムたちは、次のように言うのである。それは、御使さまSAWが何時も唱えられた言葉である。「アッラーよ、私が無気力、怠惰、臆病、けちん坊、認知症などの状態にならぬよう、また、生と死に関わる試練から、墓での災いを受けぬようお守り下さい。」


ムスリムの望ましい一日は、まだ暗い早朝に、平穏な足取りでマスジドへ向かうことから始まる。敬虔なムスリムは、強い信仰心の故に、主への畏れをもって、主が眼前におられるとの思いにより、日に5回、礼拝に立つ。アッラーは、クルアーン・ター・ハー章及び蜘蛛章において述べておられる。

「…だから、われに仕え、われを心に抱いて礼拝の務めを守れ。」(20章 14節)

「あなたに啓示された啓典を読誦し、礼拝の務めを守れ。誠、礼拝は、醜い行いと悪事から遠ざける。そして最も大事なことは、アッラーを唱念することである。…」(29章 45節)

敬虔なムスリムは、家からマスジドへ向かう時に言うであろう。それは、御使さまSAWが唱えられていたドゥアーである。「おおアッラー、私の心に光を、私の視覚に光を、私の聴覚に光を、私の右に光を、私の左に光を、私の上に光を、私の前に光を、私の後に光を御置き下さい。そして、私の為に光を強くして下さい。」 そして、マスジドに近付いた時には誰でも御使さまSAWが述べられた、次のドゥアーを唱えるがよかろう。「おおアッラー、私の為に、あなたさまの御慈悲の扉を御開き下さい。」 そして、マスジドから出る時は、「おおアッラー、私は、あなたさまの御仁慈を請い願います。」

 

信者たちよ、イスラームの長い一日の中には、飲食に関わる、家を出る時と戻る時の、寝る時と目覚める時との、困難な時の、健康と病気に関わる祈願がある。そして、生活、困難、借金と支払い、生きる糧、家族関係、子供たちの育成に関わる種々の祈願がある。アッラーは、クルアーン・雌牛章において述べておられる。

「…現世で幸せを、また、来世でも幸せを下さいますように。業火の懲罰から守って下さい。」(2章 201節)

また、アッラーに悪魔の囁きから御守り頂きなさい。アッラーは、クルアーン雷電章において述べておられる。

「これらの信仰した者たちは、アッラーを唱念し、心のやすらぎを得る。アッラーを唱念することにより、心のやすらぎが得られないはずがないのである。」「信仰して、善行に励む者にとっては、至福が彼らのものであり、善美な所が帰り所である。」(13章 28--29節)

 

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

 

アッラーよ、何時でも、あなたさまに思いを寄せる信仰心篤い者であるように御力添え下さい。

アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。

アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。

アッラーよ、イスラームムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。

アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン

 

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ズルヒッシャ月最初10日間の徳

アッサラームアライクム ワラフマトゥッラーヒ ワバラカートフ
                      
預言者様(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。
≪巡礼月の最初の10日間に行われる崇拝行為は、他のいかなるものにも勝ります。≫ アル・ブハーリーの伝承
    
≪これらの10日よりも、アッラーのもとでより偉大な日々はなく、そこでの行いがアッラーにより好ましい日々もありません。ですから、それらの日々には、タハリールとタクビールとタハミード※をたくさんしなさい。≫アフマド他 
 
※タハリール:「ラーイラーハイッラッラー」(日本語訳:アッラー以外に神はなし)と唱えること
タクビール:「アッラーフアクバル」(日本語訳:アッラーは偉大なり)と唱えること
タハミード:「アルハムドゥリッラー」(日本語訳:アッラーにすべての称賛あれ)と唱えること
_________________________
ズ・ル=ヒッジャ月(巡礼月)最初の10日間:8月23日~9月1日
アラファの日(巡礼月9日目):8月31日(木)
イード・ル=アドハー(犠牲祭・巡礼月10日目):9月1日(金)
巡礼月11日目~13日目アイヤームッタシュリーク(断食禁止):9月2,3,4日
_________________________

アラファの日(巡礼月9日目)のスンナの断食について、預言者ムハンマド様(彼に平安と祝福がありますように)は言われました。
≪前の一年と、残りの一年(前後2年間)の罪を許されます。≫ ムスリム伝承

 

 

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アラファ日の断食

アッサラームアライク ワラハマトゥッラーヒ ワバラカートゥフ

イスラーム学びチームからのメールより転載

 

 

 

今年は8/23(水)からズル・ヒッジャ月に入りました、アルハムドゥリッラー。
ズル・ヒッジャ月とはハッジ(巡礼)を行なう月のことで、ズル・ヒッジャ月の初日
から10日までは、非常に大事な日々と言われています。

(ハディース)『これらの10日よりも、アッラーの元でより偉大な日々はなく、そこ
での行ないがアッラーにより好ましい日々はありません。ですから、それらの日々
には、タハリール(ラー イラーハ イッラッラー)、タクビール(アッラーフ
アクバル)、タハミード(アルハムドゥリッラー)をたくさんしなさい。』

(ハディース)『これらの日々―つまり(ズル・ヒッジャの)10日間―よりも、そこで
の善行がアッラーにとって好ましい日々はありません。』 彼らは言いました。
アッラーの御遣い様、アッラーの道におけるジハードも(より好ましくない)ですか
?」 彼(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はおっしゃいました。『アッラーの道
におけるジハードもです、ただ自分の命と財産を携えて出陣し、そのどちらも持って
帰ってこなかった者以外は。』

ズル・ヒッジャ9日目(今年は8/31(木))はアラファの日と言われ、ハッジに行かない
者は断食するのが推奨されています。この日は最も良い昼間とされ、『アラファの日
の断食は、前年と残りの年の赦しとなります。』(ハディース)

また、この日のドゥアー(ラー イラーハ イッラッラーフ ワハダフ ラー シャリーカ
ラフ、ラフルムルク ワ ラフルハムドゥ ワ フワ アラー クッリ シャイイン カディール
:誰も並べて配されるもののない、唯一のアッラー以外に神はない。かれにのみ大権
は属し、かれにのみ称賛はある。かれは全てのことがお出来になる。)をたくさん
しましょう。

ズル・ヒッジャ月の初日から8日までも、『日々の行ないで、この日々の行ないほど
素晴らしいものはありません』(ハディース)ので、今からでも善行(心からの悔悟、
義務、スンナ、断食、サダカ、ズィクルほか)をたくさんしましょう。

9日目の夜(マグリブ後)は、イードゥルアドハー(犠牲祭)の前夜ですが、できる崇拝
行為をたくさんして過ごすのが良いです。

なお、9日目のファジュルから13日目のアスルまで、(義務)の礼拝の後に、タクビール
アッラーフ アクバル、アッラーフ アクバル、(アッラーフ アクバル)、ラー イラーハ
イッラッラー、(ワ)アッラーフ アクバル、アッラーフ アクバル、ワ リッラーヒルハムドゥ)
を言うのがスンナです。

イードゥルアドハ―の日は、グスルをして、礼拝に行く前には、何も口にせず出かける
のがスンナです。

良きイードを迎えられるますように。


ワッサラームアライクム ワラハマトゥッラーヒ ワバラカートゥフ

―― ズルヒッジャ月の最初の十日間を大切に

大塚マスジド 金曜日礼拝ホトバ 要約 (2017年8月25日)

―― ズルヒッジャ月の最初の十日間を大切に ――

 

あらゆる賞賛は、賞賛を受けるに相応しい御方であられるアッラーのもの。アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。また、ムハムマドは、アッラーのしもべであり、使徒であることを証言する。

 

信者たちよ。アッラーは、クルアーン・雌牛章において述べておられる。

「・・・旅の準備をしなさい。だが、最も優れた準備とは、篤い信仰の心である。お前たち、思慮ある者よ、われを畏れなさい。」(2章 197節)

ハッジの条件が整った者は、旅の準備をしなさいとアッラーは言っておられる。そして、ハッジに旅立つ者も、旅立たない者も、思慮ある者は、篤い信仰心をもって、いつでも準備をしていなさいということである。

 

信者たちよ。我々信仰する者たちは、神聖な日を迎えた。それは、ズルヒッジャ月の最初の十日間であり、昼に限らず夜に限らずその十日間は神聖である。至高のアッラーは、その十日間がいかに大事であるかを示す為に、その十日間によって誓いを立てておられる。アッラーは、クルアーン・暁章において述べておられる。

「暁において、」「10夜において、」「偶数と奇数において、」「去り行く夜において(誓う)。」「本当にこの中には、分別ある者への誓いがあるではないか。」(89章 1--5節)

この十日間は、聖月の中にあり、また、神聖な日であるアラファートの日がその十日間の中に含まれている。それ故、アッラーは、その十日間によって誓いを立てられたのてある。その十日間に行うのが良いと推奨される最良の信仰行為とは、礼拝、断食斎戒、ハッジ、貧しい者への施し、犠牲を捧げること、アッラーを讃える言葉を唱えることである。アッラーは、クルアーン・巡礼章において述べておられる。

「それは自らの(現世と来世の)御利益に参加し、また定められた日の間、・・・」(22章 28節)

この十日間には、良い信仰行為に対して、アッラーは、報酬を倍加して下される。預言者ムハムマドSAWは、「ズルヒッジャ月の最初の十日間に行う善行よりも優る善行というものはない。」と述べておられる。ハッジは、まさに、この十日間の中のアラファートの日を挟んで行うものであるが、ハッジを行う信者たちをアッラーの館(カアバ)で信仰行為を続けたいと願わせるほどのものがある。ところで、全ての信者たちがハッジを行うことが出来る訳ではなく、アッラーは、ハッジに行かない信者たちの為に、その十日間を信仰行為を大いに行うべき時期として位置付けられた。ハッジに行かない信者たちは、その十日間に善行を積むがよいということである。

 

信者たちよ。ズルヒッジャ月の最初の十日間は、アッラーの御赦しを得、ハッジに行くのと同等の報酬を得る絶好の機会である。ハッジを行う最終目標は、ハッジを行い戻ることであらゆる悪事を赦されているということである。預言者さまSAWは、述べておられる。「アッラーの御悦びを願って巡礼(ハッジ)を行い、その間に大きな過ちを犯してなければ、それまでに犯した悪事を赦される。」 そうした素晴らしい報酬を得る機会は、ハッジを行わない信者にもある。その機会は、その十日間の中にあるのである。時間通りに心を込めて礼拝に励む信者は、アッラーの御意志によって、ハッジを行ったと同じだけの報酬を得る。アッラーにとって最も悦ばしい行いとは、御側に寄り添おうとすることであり、アッラーは、信者たちにそう命じておられるではないか。また、その十日間の間、信仰行為に励み努めることである。預言者さまSAWは、述べておられる。「(ズルヒッジャ月の最初の十日間の間に、)家で礼拝の為の浄めを行い、定めの礼拝を集団で行う為に出かける信者については、その報酬は、イフラームの状態になりハッジに出掛ける信者のものと同等である。」 ファジュルの礼拝を前に、2ラカアの礼拝を行う事は、あらゆるものに優る。預言者さまSAWは、述べておられる。「黎明の前の2ラカアの任意の礼拝は、何ものにも優る。」 黎明の前の2ラカアの任意の礼拝を終えてから、集団の礼拝の為にマスジドへ出掛けるのは、とても良い行為である。また、イマームが述べる祈願に合わせて、アーミーン(御受入れ下さい)と唱えるのは、良い作法である。

 

信者たちよ。更には、各礼拝の後に、33回アッラーを称揚し、33回アッラーを称讃し、33回アッラーが偉大であられることを唱え、それらの合計99回に加えて、「アッラーでなくして、人々が崇拝するものは存在せず、アッラーには共同者はないことを証言する。あらゆる主権は、アッラーのもの。あらゆる称讃は、アッラーのもの。アッラーは、全能の神であられる。」を唱えることで、合計100回、真実を唱えなさい。そうすれば、海に浮かぶ泡程に沢山の悪事であっても赦されるだろう。また、多くの報酬を期待できる信仰行為には、有意義な知識を得ようとして、マスジドでの学習に参加するというものがある。預言者さまSAWは、述べておられる。「マスジドへ、教えたり、学んだりする為に出かける信者は、ハッジを成し遂げた巡礼者が得ると同等の報酬を得るだろう。」 誠に、そうした良い行いについては、ズルヒッジャ月の最初の十日間にアッラーの御悦びを願い行うならば、報酬が倍加される。

 

信者たちよ。ズルヒッジャ月の最初の十日間にアッラーに御近づきになるその他の行いと言えば、アッラーの思し召し、即ち、与えて下されることに感謝することである。至高のアッラーへの感謝の表明は、悪事を消し去るもう一つの行いである。預言者さまSAWは、「何かを口にして、『自分には何も無いのに、この食べ物を与えて下されるアッラーを賛美します。』と唱える者、衣類を纏いながら、『自分には何も無いのに、この着物を与えて下されるアッラーを賛美します。』と唱える者は、過去と未来の過ちを赦される。」と述べておられる。

 

信者たちよ。最も大事なこととは、至高のアッラーの教えを受け入れ、御命令に従うことである。そして、預言者さまSAWは、ズルヒッジャ月の最初の十日間には夜も昼も、アッラーの御満足を得る為の良い行いに励みなさいと教えておられる。アッラーは、ズルヒッジャ月の最初の十日間に誓って、その十日間が素晴らしい日々であると言っておられる。それ故、我々信者は、そのことを重く受け止めて、出来る限りの善行を積まねばならない。例えば、アッラーを思い、クルアーンの読誦に努め、更に、三つの称讃と祈願の言葉、即ち、タハリール、タクビール、タフミドを唱えることである。預言者さまSAWは、「ズルヒッジャ月の最初の十日間以上に大事な日は、アッラーにとってはないものであり、また、その日に行われる善行以上にアッラーにとって好ましいものもない。それ故、タハリール(ラーイラーハイッラッラー・アッラーの他に神は存在しない。)、タクビール (アッラーフアクバル・アッラーは偉大なり)、タフミド(アルハンドゥリッラー・アッラーを讃える)を沢山唱え祈願しなさい。」と述べておられる。また、預言者さまSAWに御加護があるように祈願し、喜捨に努め、近親の絆を大切にし、人々を助けることに努めなさい。ズルヒッジャ月の最初の十日間には、人との良い係わりが特に求められているのである。アッラーは、クルアーン地震章において述べておられる。

「一微塵の重さでも、悪を行った者は、それを見る。」(99章 7節)

 

預言者ムハムマド、教友とその一家に祝福と平安がありますように。そして、正当なカリフ、アブー・バクル師、ウマール師、ウスマーン師、アリー師と、正しい道に従う者たちに、祝福と平安がありますように。

 

アッラーよ、ズルヒッジャ月の最初の10日を有意義に過ごす者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを称讃し、あなたさまに感謝する者であるように御導き下さい。

アッラーよ、あなたさまを愛し、預言者さまSAW を愛する者であるように、御導き下さい。

アッラーよ、預言者ムハムマドSAW に従い、イスラームの教えを守る者にして下さい。

アッラーよ、私たちの信仰心を強くして下さい。私たちの過ちを御赦し下さい。

アッラーよ、日本中に、世界中にイスラームを広められるように御力添え下さい。

アッラーよ、イスラームムスリムたちの為に奉仕出来るように力と御加護を御与え下さい。

アッラーよ、病気の者たちを御治し下さい。仕事の無い者たちに清い仕事を御与え下さい。

アッラーよ、日々の生活に活力と喜びを、そして安心と安全を御与え下さい。 アーミィーン